2005年 04月 23日
さようなら叔父さん |
水曜日の夜、母からの電話で叔父の訃報を知った。
私がハワイに発つ前日に、くも膜下出血で倒れたと聞いていたので
旅行中も心配で何度か電話をしていたが、状態は落ち着いていたのに。
本当に急だった、全く前兆がなく弔問客の誰もが驚いていた。
56歳、あまりにも早すぎる一生だった。
叔父は兄弟の末っ子で、昔から私達に一番近い存在であり、よき理解者だった。
私が幼い頃、バイクで我が家に遊びに来た叔父に、活発だった姉は
真っ先に後ろに乗せてもらっていた。
そんな時も大人の目線で「危ないから」とは言わず、「おう!乗れ乗れ!大丈夫だよ」と
子供の好奇心の芽を摘むことはなかった。
小心者だった私は怖くて「乗せて」とは言えなかったが、私はそんな叔父の姿が
とても好きだったし、叔父のような生き方をとても羨ましいと思っていた。
何事にも大きな心で相手を理解してくれる、優しい人だった。
私が大学で実家を出てからは、あまり交流を持つことがなく
最後に会ったのは、2年前の私の結婚式。
お葬式の席で知ったのだが、ライフルの腕前は相当だったらしく
最近ではオリンピック選手の育成にも携わっていたようだ。
もっと頻繁に会っていたら、そんな話もたくさん聞けただろうな。
きっと私が興味を持ったら、「やってみるか?」と言って連れて行ってくれたんだろうな。
天真爛漫、そんな言葉が似合う叔父の最後の姿は、少し疲れていて
大きな手術だっただけに、少し苦しそうでもあった。
でもきっと、今は天国で笑顔でいると思う。いつも笑顔の人だったから。
叔父さん、たくさんの元気をありがとう。どうか安らかにお眠りください。
このような記事をブログに載せることに迷いはあったのですが
今のこの気持ちを形に残しておきたいという思いと
今回のことを通して、私たちの親の世代が一生を終えてしまう歳に
なってしまったことを改めて実感し、これを機に少しでも親孝行をしようと
思っていただければと思い、書かせていただきました。
私がハワイに発つ前日に、くも膜下出血で倒れたと聞いていたので
旅行中も心配で何度か電話をしていたが、状態は落ち着いていたのに。
本当に急だった、全く前兆がなく弔問客の誰もが驚いていた。
56歳、あまりにも早すぎる一生だった。
叔父は兄弟の末っ子で、昔から私達に一番近い存在であり、よき理解者だった。
私が幼い頃、バイクで我が家に遊びに来た叔父に、活発だった姉は
真っ先に後ろに乗せてもらっていた。
そんな時も大人の目線で「危ないから」とは言わず、「おう!乗れ乗れ!大丈夫だよ」と
子供の好奇心の芽を摘むことはなかった。
小心者だった私は怖くて「乗せて」とは言えなかったが、私はそんな叔父の姿が
とても好きだったし、叔父のような生き方をとても羨ましいと思っていた。
何事にも大きな心で相手を理解してくれる、優しい人だった。
私が大学で実家を出てからは、あまり交流を持つことがなく
最後に会ったのは、2年前の私の結婚式。
お葬式の席で知ったのだが、ライフルの腕前は相当だったらしく
最近ではオリンピック選手の育成にも携わっていたようだ。
もっと頻繁に会っていたら、そんな話もたくさん聞けただろうな。
きっと私が興味を持ったら、「やってみるか?」と言って連れて行ってくれたんだろうな。
天真爛漫、そんな言葉が似合う叔父の最後の姿は、少し疲れていて
大きな手術だっただけに、少し苦しそうでもあった。
でもきっと、今は天国で笑顔でいると思う。いつも笑顔の人だったから。
叔父さん、たくさんの元気をありがとう。どうか安らかにお眠りください。
このような記事をブログに載せることに迷いはあったのですが
今のこの気持ちを形に残しておきたいという思いと
今回のことを通して、私たちの親の世代が一生を終えてしまう歳に
なってしまったことを改めて実感し、これを機に少しでも親孝行をしようと
思っていただければと思い、書かせていただきました。
by ragazza.seta
| 2005-04-23 22:05
| ひとりごと